生活衛生化学部 第3室-突発的水質汚染事故の対応

突発的水質汚染事故の対応

 生活衛生化学部 第3室では,水道原水において突発的な水質汚染事故が発生した場合には,その対応に当たり,原因究明等を行います.以下に,水質汚染事故における緊急対応に関する,過去の研究事例を掲載します.

利根川水系の浄水場におけるホルムアルデヒド水質汚染事故について

1.はじめに

 平成24年5月に利根川水系の浄水場において,ホルムアルデヒドが高濃度で検出されたため,利根川水系の一部の浄水場で取水停止等の措置が取られ,広範囲で断水が発生しました.ホルムアルデヒドは,水道原水中のアミン類等の有機物質(ホルムアルデヒド前駆物質)と塩素・オゾン等の消毒剤が反応することによって生成します.この水質汚染事故では,河川水から高濃度のホルムアルデヒドは検出されていなかったことから,ホルムアルデヒドが河川に流入したのではなく,何らかのホルムアルデヒド前駆物質が河川に流入し,浄水過程で塩素と反応してホルムアルデヒドが生成したものと考えられました.そこで,この水質汚染事故の原因物質を特定するため,北千葉広域水道企業団および東京都水道局から分与された水質汚染事故発生時の水道原水を分析し,ホルムアルデヒド前駆物質の特定に至ったので,その経緯についてここに記載します.

2.実験方法

 北千葉広域水道企業団が5月19日5:00~10:30に江戸川野田橋において採水した水道原水4検体,5月19日8:00~18:30に江戸川北千葉取水口において採水した水道原水5検体,および東京都水道局が江戸川流山橋において5月19日 8:00に採水した水道原水1検体(合計10検体)をメンブランフィルターでろ過し,試料溶液としました.
 試料溶液をLC/MS/MS (島津製作所 LCMS-8030) に注入し,観察されたピークの保持時間と,プリカーサイオンおよびプロダクトイオンの質量電荷比(m/z)に基づいてホルムアルデヒド前駆物質を同定しました.また,高分解能LC/MS (島津製作所 LCMS-IT-TOF) に試料溶液を注入し,観察されたピークのm/zを標準品のピークのm/zおよび質量数の理論値と比較しました.
 さらに,試料中のホルムアルデヒド前駆物質の濃度をLC/MS/MSを用いて定量しました.

LCMS-8030.jpg
LCMS-8030

LCMS-IT-TOF.jpg
LCMS-IT-TOF

3.結果と考察

 LC/MS/MSによる分析では,全ての試料でヘキサメチレンテトラミンと思われるピークが検出され,これらのプリカーサおよびプロダクトイオンのピーク強度および面積比は,試料溶液とヘキサメチレンテトラミン標準溶液との間でほぼ一致しました.また,高分解能LC/MSによる分析では,各試料溶液およびヘキサメチレンテトラミン標準液分析で検出されたピークのm/zはそれぞれ141.1131,141.1121であり,ヘキサメチレンテトラミンのプロトン付加分子[C6H12N4+H]+の質量数の理論値141.1135とミリマスオーダーで一致しました.以上のことから,水道原水中から検出されたピークはヘキサメチレンテトラミンであると判断しました.
 試料溶液中のヘキサメチレンテトラミンの濃度範囲は0.041~0.20 mg/Lであり,同試料のホルムアルデヒド生成能との間に高い正の相関関係が認められました(r2=0.9576).

hexamethylenetetramine_formaldehyde_correlation.png

 ヘキサメチレンテトラミンは塩素処理によって加水分解して,ホルムアルデヒドとアンモニアに変換されることが知られています(C6H12N4 + 6H2O → 6CH2O + 4NH3).

Formaldehyde_formation.png

 この反応式を用いて,試料中のヘキサメチレンテトラミン濃度から,理論上生成するホルムアルデヒド濃度を算出したところ,各水道原水中のホルムアルデヒド生成能の実測値の78~121%とよく一致しました.
 以上のことから,今回,利根川水系の一部の浄水場において,ホルムアルデヒドが高濃度で検出された問題の主要な原因物質は,ヘキサメチレンテトラミンであると結論しました.

4. その後の経緯

 本報に記した我々の分析結果および考察を受けて, 5月24日に厚生労働省は環境省と合同で報道発表を行い,ヘキサメチレンテトラミンが今回の水質汚染事故の主たる原因物質であると発表しました(厚生労働省,2012LinkIcon).
 この発表内容に基づき埼玉県,群馬県,および高崎市は,ヘキサメチレンテトラミンを使用する化学会社に対し調査を行いました.その結果,高崎市の産業廃棄物処理業者が埼玉県本庄市の化学会社から受け入れた廃液にヘキサメチレンテトラミンが含まれていたことが判明し,全容の解明に繋がりました.

参考文献

  • 小林憲弘,杉本直樹,久保田領志,野本雅彦,五十嵐良明:利根川水系の浄水場におけるホルムアルデヒド水質汚染の原因物質の特定.水道協会雑誌, 81(7), 63–68 (2012).
  • 小林憲弘,杉本直樹,久保田領志,野本雅彦,五十嵐良明:ホルムアルデヒド水質汚染の原因物質の特定に至る経緯と水道水中の未規制物質の管理における今後の課題.日本リスク研究学会誌,23(2), 65–70 (2013).

今後の課題

 今回の水質汚染事故においては,多くの幸運や特異的な点が重なり,原因物質を特定することができました.しかしながら,現状において,水質基準項目以外の規制対象外の未知物質による水質汚染が発生することを想定した監視体制は十分に整備されておらず,再び類似の水質汚染事故が発生した場合に,原因物質の分析法が事前に整備されていなければ,原因物質を速やかに特定することはおろか,最終的に原因を明らかにすること自体が不可能になってしまうおそれがあります.また,今回の水質汚染事故のように,その前駆物質は規制の対象外であるため,今後も同様の水質汚染事故が発生する可能性が否定できません.
 このような事故が発生した場合の水道水への影響を抑え,再発を防止するためには,消毒副生成物の前駆物質となる化学物質の情報を収集・公開し,化学物質を取り扱う事業者に周知するとともに,汚染物質を迅速に同定・定量するためのフレームワークの構築が必要です.
 現在,当室において特に重要と考えている課題は,以下の3点です.

水質汚染事故の緊急対応指針の構築

 実際に水質汚染事故が発生した場合に,試料の採取,保存(あるいは輸送)方法のマニュアル化や,アルデヒド類の前駆物質分析方法の情報共有,および原因物質特定を即座に行える体制の構築等が必要です.特に,原因物質の特定においては,国立医薬品食品衛生研究所のみならず,全国各地の地方衛生研究所や水道事業体においても対応を行えるように,新規分析方法の共同開発や,情報共有を行うことが望ましいと考えています.また,原因物質の特定においては,事故原因の候補物質の個別分析法を一つずつ試していくことは効率が悪く,原因究明までに時間がかかってしまうことから,多成分の一斉分析法を開発し,適用できる物質を随時追加していく必要があると考えています.

簡易分析法の確立と適用

 今回のような水質汚染事故に対しては,早急な状況把握と対応が求められます.すなわち,ホルムアルデヒド濃度が水道水質基準を超過するおそれがあるかどうかを即座に判断し,場合によっては速やかに取水制限等の対策を講じることが必要となります.その際のホルムアルデヒド濃度の把握には,公定法(告示法)によるガスクロマトグラフ質量分析計(GC/MS)を使った,長時間の前処理を要する正確な定量分析法よりも,定量精度は劣っても迅速にデータを得ることのできる分析法の方が有用です.
 日常の水質検査ではなく,事故発生時の緊急時に用いるための方法として,ホルムアルデヒド等の簡易分析法について確立し,現実の事故発生時に適用できるようにしておくことが重要と考えています.

網羅的スクリーニング分析法の確立と適用

 上記の2点はいずれも水質汚染事故が発生した際の緊急対応における課題ですが,平時の監視体制においても課題があります.
 近年の化学物質の種類と使用量の増大に伴い,想定外の化学物質が環境に排出される可能性があることから,対象物質を定めずに網羅的に分析を行う,ノンターゲット分析の適用について更なる検討が必要と考えられます.例えば,上述したLC/IT-TOF-MSを用いた分析も,ノンターゲット分析の一種であり,試料中から検出された物質の精密質量に基づいて定性行うことができます.そのため,物質のデータベースを予め準備しておけば,標準物質を揃えておかなくても,スクリーニングが可能であり,水道水の安全性確保に貢献できると考えます.

 これらの課題に対処するべく,国立医薬品食品衛生研究所においては,ホルムアルデヒドを含む消毒副生成物およびその前駆物質となるアミン類の分析法に関する情報収集と分析法の開発を行うとともに,水質事故に対する監視体制を強化するための水道原水中の未知汚染物質の検出と,網羅的分析法に関する基礎的検討を現在実施しています.ただし,モニタリングにおいては,単純に規制を強化すればよいというわけではなく,そのコストとベネフィットの両方を考慮して現実の運用を行うべきであり,リスク評価に基づいた監視体制の構築が必要と考えます.