環境保健クライテリア 132
Environmental Health Criteria 132

トリクロルホン Trichlorfon

(原著162頁,1992年発行)

作成日: 1997年2月24日
1. 物質の同定、物理的・化学的特性、分析方法
2. 暴露
3. 摂取・代謝・排泄
4. 環境中の生物への影響
5. 実験動物およびin vitro(試験管内)試験系への影響
6. ヒトへの影響
7. 結論
8. 勧告
9. 国際機関によるこれまでの評価

→目 次



 1.物質の同定、物理的・化学的特性、分析方法

a 物質の同定

化学式               C4H8Cl3O4P 
化学構造

3次元の化学構造の図の利用
図の枠内でマウスの左ボタンをクリック → 分子の向きを回転、拡大縮小 右ボタンをクリック → 3次元化学構造の表示変更

分子量 257.44 一般名 trichlorfon(ISO) その他の名称 chlorofos, DEP, DETF, dipterex, dimethyl1‐hydroxy‐2,2,2‐ trichloroethanephosphonate, O,O‐dimethyl(2,2,2‐trichloro‐ 1‐hydroxyethyl) phosphonate, metrifonate, foschlor, trichlorofon, trichlorphon 商品名 Agroforotox, Anthon, L 13/59, Bilarcil, Cekufon, Danex, Dipterex, Ditriphon, Dylox, Dyrex, Dyvon, Masoten, Metrifonate, Neguvon, Proxol, Tugon, Wotex CAS登録番号 52-68-6 CAS化学名 dimethyl 2,2,2-trichloro-1-hydroxyethylphosphonate RTECS登録番号 TA0700000 換算係数(25℃,760mmHg) 1 ppm = 11.4 mg/m3 1 mg/m3 = 0.088 ppm   b 物理的・化学的特性 a 物理的状態 無色結晶 沸点(0.1mmHg) 100℃ 融点 83〜84℃ 比重(20℃/4℃水 ) 1.73 蒸気圧(20℃) 7.8×10−6 mmHg 揮発度(20℃) 0.022 mg/m3 溶解性(25℃) 水 15.4 g/100ml ベンゼン 15.2 g/100ml クロロホルム 75.0 g/100ml ジエチルエーテル 17.0 g/100ml n−ヘキサン 0.08 g/100ml オクタノール/水分配係数 0.57 (log Pow)   腐食性 金属に対して腐食性を有する  a; Giang et al.(1954), FAO/WHO (1972), Derek(1981), IARC(1983)より引用  表 トリクロルホンの構成成分(工業規格品)a  ―−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  純度 トリクロルホン 98%以上 不純物 2,2-dichlorovinyl dimethyl phosphate 主な不純物 dichlorvos 0〜0.2% trichloroacetaldehyde 0〜0.05% dichloroacetaldehyde 0〜0.03% methyl hydrogen 2,2,2-trichloro-1-hydroxyethylphosphonate 0〜0.3% (demethyl trichlorfon 0〜0.3%) 水 0.3%未満    工業製品は phosphoric acid,2,2,2-trichloro-1-hydroxyethylphosphonic acid および dimethyl phosphiteを含有する b  ―−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   a; FAO/WHO (1972)より  b; FAO/WHO (1972), Melnikov et al.(1975)より  ヒトを含む哺乳類におけるトリクロルホンの主な分解生成物は、トリクロルホンの 少なくとも100倍のコリンエステラーゼ阻害活性を有するジクロルボスである (Hofer,1981)。トリクロルホンは、哺乳類の体内では、特に重要なことに、住血 吸虫に対するジクロルボス作用の「徐放性の発生源」(slow release source)として 作用する、ということができる(Nordgren,1981;Nordgren et al.,1978)。  本書においては、トリクロルホンに直接関係のある情報についてのみ検討し評価す る。  ジクロルボスの健康および環境への有害性の評価については、読者は環境保健クラ イテリア(EHC)No.79の「ジクロルボス」(WHO,1989)を参照されたい。さら に、有機リン系殺虫剤の一般の影響に関するよりまとまった論文、特に神経系への短 期および長期の影響とその処置については、EHCNo.63の「有機リン系殺虫剤−総説 −」(WHO,1986)を参照されたい。  トリクロルホンの毒性と有害性についての、1983年までの旧ロシアの文献の総合 的なレビューは国際有害化学物質登録制度(International Register of Potentially Toxic Chemicals)により発行されている(IRPTC/GKNT,1983)。


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2.暴露  トリクロルホンは、1950年代の初期より使用されている有機リン系殺虫 剤である。農業では、それは主として畑地や果実園の農作物の害虫に対して用いられ ている。また、トリクロルホンは森林害虫や家畜の寄生虫の駆除にも使われている。 トリクロルホンはメトリホネート(Metrifonate)の名前で、ヒトのビルハルツ住血 吸虫Schitosoma haematobium(訳者注:尿性または膀胱性住血吸虫の病原体で、成 虫はヒトの膀胱に寄生する。終宿主はヒトとヒヒで、中間宿主は淡水貝である)の寄 生の治療に用いられており、それはジクロルボスの徐放性の発生源と見なされている。 トリクロルホンは、乳剤・粉末剤・顆粒剤・粉粒剤・液剤・微量散布剤(ultra‐low volume concentrates)として入手できる。  トリクロルホン殺虫剤の大気中濃度は、散布後間もなく0.1mg/m3程度までにな り得るが、数日内には0.01mg/m3以下に減少する。散布地域からの流出水中のト リクロルホンの濃度は50μg/l程度であるが、表層水中の濃度は通常はずっと低く、 急速に減少する。  トリクロルホンは土壌中で速やかに分解し、一般的には、施用後一か月以内には、 無視し得る濃度にまで減少する。また、水中ではpH5.5以下で比較的安定である。 より高いpHでは、トリクロルホンはジクロルボスに変化する。微生物および植物は トリクロルホンを代謝すると考えられるが、最も重要な除去経路は非生物的な加水分 解である。  少数の例外を除いては、トリクロルホンの農作物への残留は、施用当日では 10mg/kg以下で、2週間後には0.1mg/kg以下に減少する。  害虫駆除にトリクロルホンを使用した牛のミルクは、施用2時間後では1.2mg/l 程度まで残留し得るが、24時間後には0.1mg/l以下に減少する。トリクロロホン処 理された動物の肉には、有意のレベルのトリクロルホンは見出されていない。また、 トリクロロホン処理された鶏の卵には0.05mg/kgのトリクロロホンの含有が見出さ れた。 3.摂取・代謝・排泄  トリクロルホンは、すべての暴露経路(経口・経皮・吸入) により容易に吸収され速やかに体組織に分布する。最高血中濃度は1〜2時間以内に 検出され、血中からはおよそ1.5〜4時間の間に完全に消失する。哺乳類の血液中 におけるトリクロルホンの生物学的半減期は30分程度と推定されている。  トリクロルホンは、pH値5.5以上では、水中・体液中・体組織で脱塩化水素作用 によりジクロルボス[(2,2−ジクロロビニル)ジメチルリン酸]に変換される。主 要な分解経路は、脱メチル化、P−C結合の開裂、ジクロルボスを経てのエステル加 水分解である。In vivo(生体内)におけるトリクロルホンの主要代謝生成物は、脱メ チルトリクロルホン・脱メチルジクロルボス・ジメチルリン酸・モノメチルリン酸・ リン酸・トリクロロエタノールである。最終の代謝生成物はグルクロン酸抱合体とし て尿中に見出される。  トリクロルホンとその代謝生成物は、主として尿を介して排出される。(14C− メチルおよび32P−)ラベルのトリクロルホンを用いた研究では、ほとんどが水溶 性物質として、また、微量がクロロホルム可溶性のかたちで排出された。12時間以 内にほぼ66〜70%の水溶性の生成物が尿中に出現し、14C−メチルラベルの24% が呼気中に二酸化炭素として排出された。経口および経皮処理後の牛のミルク中に低 濃度のトリクロルホンとその代謝生成物が検出されている。
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4.環境中の生物への影響  トリクロルホンは魚類に対して中程度の毒性[96時間 のLC50(50%致死濃度)値は0.45〜51mg/lの範囲内]を、また、水生節足動 物(訳者注:エビ・カニなど)に対しては中程度から高度の毒性(48時間/96時間の LC50は0.75μg/lおよび7,800μg/lの範囲)を示す。しかし、森林における 6kg/haのトリクロルホンの散布後の表層水中の濃度は、これらの範囲には達しない。 また、軟体動物や微生物などのような他の生物は節足動物よりも感受性が低いため、 正常の使用では、トリクロルホンは水生生物の個体数に対しての影響はほとんどない かあるいは全くないであろう。実験室の試験からのLD50(50%致死量)値の40 〜180mg/kgは、トリクロルホンの鳥類に対する毒性は中程度であることをを示す。 しかし、野外試験では、トリクロルホンの空中散布後において、森林鳴禽類の個体数・ 繁殖の形成・営巣・死亡率への影響は見られなかった。鳴き声の減少と摂食活動の増 加が観察されたのは、餌にしている生物の減少のためであろう。トリクロルホンが節 足動物以外の陸生生物に有害な影響を与える徴候はない。有益な節足動物への影響に ついての情報はない。 5.実験動物およびin vitro(試験管内)試験系への影響  トリクロルホンは実験動物に対し中程度の毒性を示す殺虫剤である。トリクロルホンの工業製品原 体の実験動物に対する経口のLD50値は400〜800mg/kg体重であり、ラットに対 する経皮のLD50値は2,000mg/kg体重より高い。  トリクロルホンの中毒では、神経末端部におけるアセチルコリンの蓄積による通常 の有機リン酸塩によるコリン作動性の徴候が見られる。  トリクロルホンの工業製品は、ラットの眼に中程度の刺激性を示したが、ウサギの 皮膚試験では刺激は見られなかった。モルモットでは皮膚感作(訳者注:過敏状態の 誘発)の可能性が示された。  短期経口毒性試験が、ラット・イヌ・サル・ウサギ・モルモットを用いて実施され た。ラットの16週間、イヌの4年間(訳者注:?;原著のまま)、サルの26週間の 試験において、無影響量(NOELs:no‐observed‐effect levels)はそれぞれ100mg/kg 食餌、50mg/kg食餌、0.2mg/kg体重であった(血漿・赤血球・脳のコリンエステ ラーゼ活性に基づき)。ラットの3週間にわたる吸入暴露では、血漿・赤血球・脳の コリンエステラーゼ活性阻害に基づいて、12.7mg/m3のNOELが示された。長期 毒性/発がん性試験が、経口・腹腔内・経皮投与によりマウス・ラット・サル・ハム スターについて行われた。マウスに対する30mg/kg体重およびラットに対する 400mg/kg食餌の経口暴露後に、生殖腺への有害影響が見られた。ラットの24か月 試験およびサルの10年間の試験により、無毒性量(NOAELs:no‐observed‐adverse ‐effectlevels)は、それぞれ50mg/kg食餌および0.2mg/kg体重と決定された。入 手し得るデータでは、数種類の投与経路による試験動物への長期暴露後において、発 がん性の証拠は得られていない。  生理学的条件下では、トリクロルホンはDNAをアルキル化する特性を有する、と 報告された。トリクロルホンの変異原性は、陽性および陰性の両方の結果が得られて いる。観察された影響については、部分的あるいはその全てについてジクロロボスが 原因物質と考えられる。細菌類および哺乳類細胞によるin vitro(試験管内)の変異 原性試験の大多数は陽性であったが、一方、in vivo(生体内)試験では陽性の結果は ほとんど得られていない。  マウス・ラット・ハムスターによる試験においては、トリクロルホンは母獣への毒 性を示す高用量で、ラットに催奇形性を示した。ラットの妊娠期間中へのトリクロル ホン145mg/kg食餌の暴露により、胎児の奇形が見られた。また、ハムスターにおけ る食餌中の用量400mg/kg体重の胃中挿入投与は、母獣への毒性と催奇形性が認めら れた。ラットにおいて催奇形性を示す食餌の胃中挿入投与による最小用量は80mg/kg 体重であった。この影響は妊娠期間中の時期に特異的と考えられた。この食餌の胃中 挿入投与試験により、8mg/kg体重のNOELが決定された。  ラットに対しては8mg/kg体重、ハムスターについては200mg/kg体重のNOELs が示された。中枢神経系を含む催奇形性反応は、ブタおよびモルモットにおいても報 告されている。  しかし、ラットの3世代生殖試験では、高用量では生殖に有害影響が見られたが、 催奇形作用は観察されなかった。この試験におけるNOELは300mg/kg食餌であっ た。  きわめて高い投与量では、動物に神経毒性作用を生じさせた。  哺乳類に活性を示す変換生成物は、抗コリンエステラーゼ作用においてトリクロル ホンの少なくとも100倍以上の強さを有すると推定されるジクロルボスである。
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6.ヒトへの影響  意図的な(自殺の)あるいは事故による暴露の数例の急性中毒が 発生している。中毒の徴候と症状は、極度の疲労・脱力感・錯乱状態・過度の発汗と 唾液分泌・瞳孔縮小・筋肉痙攣などのアセチルコリンエステラーゼ阻害の特徴を示し ている。重篤な中毒例では、意識喪失・ひきつけを経て、通常は呼吸不全により死亡 する。治療により命が助かった犠牲者の場合には、時には下肢の脱力感を伴う遅発性 の多発神経障害が、暴露数週間後に発症する。死亡事例の解剖所見では、脳・脊髄・ 自律神経節の虚血性の病変、脊髄および脳脚の髄鞘の損傷、末梢神経の軸索の構造的 変化が示された。  数例の職業中毒は、主として安全基準の無視から発生している。気中濃度が0. 5mg/m3をこえる作業場での職業的暴露により、血漿コリンエステラーゼの減少と 脳波パターンの変化を生じた。しかし、これらの影響は、暴露中止により完全に可逆 性であることを示した。皮膚感作の事例は報告されていない。  本化合物は、ヒトの住血吸虫症の治療に広く用いられてきた。その単回投与(7〜 12mg/kg)はコリン作動性の症状の発現なしに、40〜60%の範囲の血漿および赤血球 のコリンエステラーゼ阻害を生じさせた。しかし、反復投与では軽度の症状が観察さ れた。高用量(24mg/kg)の投与では、重度のコリン作動性の症状を発生させた。 7.結論  − トリクロルホンは、中程度の毒性を有する有機リンエステル系の殺虫剤 である。その製造・使用中の取り扱い、事故によるあるいは意図的な摂取からの過剰 暴露は重篤な中毒を発生させるであろう。 − トリクロルホンの一般集団への暴露は、主として農業と家畜への使用、ビルハル ツ住血吸虫の治療において起こる。 − 報告されたトリクロルホンの取り込みは、FAO/WHO(国連農業食料機関/世界 保健機関)により設定された一日許容摂取量(ADI:Acceptable Daily Intake)より はるかに低く、一般集団に健康の危険性を与えるものではない。 − 作業規範・衛生上の注意・安全基準の遵守により、トリクロルホンは職業上の暴 露の危険をもたらすことはないであろう。 − トリクロルホンは、標的外の節足動物への高い毒性にもかかわらず、環境内の生 物の個体数への有害影響がほとんどない、あるいは全くなく使用されてきた。
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8.勧告 − 作業者および一般集団の健康と福祉のため、トリクロルホンの取り扱い と施用は、十分に管理、訓練され、適切な安全基準を遵守し、実施基準に従ってトリ クロルホンを取り扱う者にのみ任せるべきである。 − トリクロルホンの製造・製剤・農業における使用・廃棄は、環境、特に表層水の 汚染を最小にするため、慎重に管理すべきである。 − 定期的に暴露される作業者および患者は、定期的な健康診断を受けなけれねばな らない。 − 標的外の節足動物類への影響を避けるため、トリクロルホンの施用率を制限すべ きである。本殺虫剤は水面あるいは水流に向かって散布してはならない。 9.国際機関によるこれまでの評価  トリクロルホンは、国連食糧農業機関(FAO)/世界保健機関(WHO)の 合同残留農薬専門家委員会(JMPR)により、1971年、 1975年、1978年に評価を受けた(FAO/WHO,1972,1976,1979)。1978年に、 次のレベルは毒性学的影響を生じさせないとの事実に基づいて、JMPRはヒトに対す る0〜0.01mg/kg体重の一日許容摂取量(ADI)を設定した。  ラット: 50mg/kg食餌で2.5mg/kg体重に相当する。  イヌ: 50mg/kg食餌で1.25mg/kg体重に相当する。  1986年、FAO/WHOの規格委員会(Codex Committee)は、特定の食品に最大残 留基準(Maximum residue limits:MRLs)を勧告した(FAO/WHO,1986)。こ れらの範囲は作物当り0.05〜2mg/kgである。  トリクロルホンは、1983年、国際がん研究機関(IARC:International Agency for Research on Cancer)ワーキング・グループにより評価を受けた。ヒトにおける発が ん性のデータはなく、実験動物による発がん性の証拠は不十分、とされた。トリクロ ルホンは、グループ3すなわちヒトに対して発がん性を示す物質とは分類できない、 と評価された(IARC,1983,1987)。  1990年にWHOは、トリクロルホンの工業製品について「軽度の危険性を有する」 の物質(クラスV)と分類した(WHO,1990)。トリクロルホンに関するデータシ ート(No.27)は1977年にWHOにより発行されている(WHO/FAO,1977)。
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Last Updated :24 August 2000 NIHS Home Page here