環境保健クライテリア 86
Environmental Health Criteria 86

水銀Mercury - 環境面からの検討 -

(原著115頁,1989年発行)

作成日: 1997年2月17日
はじめに
1. 要約および結論
1.1物理的・化学的特性

1.2.環境中の汚染源
1.3 生物における取り込み・喪失・蓄積
1.4 微生物への影響
1.5 水生生物への影響
1.6 陸生生物への影響
1.7 野外における水銀の影響
2. 評価
2.1 海洋環境
2.2 淡水環境
2.3 陸生環境

→目 次


はじめに
 化学物質によってもたらされる可能性のある脅威(threat)の評価について、 毒性学者(toxicologist)および生態毒性学者(ecotoxicologist)との間のア プローチには、根本的な差異が存在する。毒性学者の関心はヒトの健康と福祉 であるため、個人の機能(performance)あるいは生存に対する究極的な悪影響 があるか否かの問題に占められている。これとは対照的に、生態毒性学者は主 として、環境中における生物の個体群レベルの維持に関心をもつ。毒性試験に おいて、それらの影響が最終的に個体数に影響を及ぼす場合には、彼は個体の 機能すなわち生殖および生存への影響に関心をもつている。彼にとっては、そ れらが生殖・成長・生存に及ばないならば、汚染物質の些細な生化学的および 生理学的影響は無関係なのである。  本モノグラフの目的は、生態毒性学者の視点を取り入れ、環境中の生物の個 体数への影響を検討することであり、ヒトの健康影響への結論との関連づけは 試みられなかった。この問題については、現在作成中の、水銀のヒトの健康へ の影響を検討した環境保健クライテリア1:水銀(WHO,1976)の新版で取り上 げられている。ここでは当然、水銀の環境中での持続性と、水生食物連鎖中で の生物濃縮と移動に重点が置かれている。これらはヒトによる水銀の摂取に密 接な関係を有するであろう。  本文書は、文献類の十分な検索に基づいているが、すべての資料について徹 底した検討を加えたわけではなく、簡潔を保つため、水銀が環境にもたらすリ スクの評価において不可欠と見なされるデータのみを包含した。環境中の水銀 の濃度の数値や特定の生物の種類は、それらが特別の毒性を示さない限り含ま れていない。水銀の存在と、観察された影響との間の因果関係が明確に証明さ れない「スナップ・ショット」(一時点における)の濃度データは除外された。 生物濃縮という用語は、生物が環境中あるいは食物中に見出されるよりも高濃 度を形成する化学物質類の取り込みを意味する。「生物濃縮係数」とは、生物 濃縮を表す定量的方法で、生物中の化学物質濃度と、環境あるいは食物中の濃 度との比である。本モノグラフにおいて、生物濃縮は食物連鎖による化学物質 の進行性の蓄積を意味する。
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1. 要約および結論  1.1 物理的・化学的特性 a 物質の同定 元素記号 Hg 原子番号 80 原子量 200.59 CAS登録番号 7439-97-6   b 物理的・化学的特性a 物理的状態 銀白色 流動液体金属 金属水銀は スズ白色 臭気 無臭 沸点 356.72℃ 融点 −38.87℃ 比重(25℃) 13.534 蒸気圧(25℃) 2×10−3 mmHg 大気中飽和濃度(24℃)約18 mg/m3   a;HSDB (Oct. 1995)  水銀は、常温常圧においては流動体の金属である。それは二種類のイオン状 態、1価水銀および2価水銀で塩類を生成する。2価水銀(U)あるいは第二水銀 塩類(mercuric salts)は1価水銀塩類よりもはるかに一般的である。したがっ て、ここでは第二水銀塩類について検討する。また、水銀は有機金属化合物類も 生成し、その一部は工業的および農業上の使用において見出されている。ここで 用いる「有機金属」は、共有結合化合物を意味し、タンパク質類と結合した水 銀や有機酸類により生成された塩類は含まれない。これら有機金属化合物類の 一部は、生物により容易に分解される一方、その他は容易には生分解されない が、一般的には安定している。水銀元素は水にはごくわずか溶け、蒸気を発生 する。 1.2 環境中の汚染源  天然の水銀は、火山ガス類による地殻のガス噴出、そしておそらくは海洋か らの蒸発から生じる。水銀鉱石から出てくる水の中の濃度も高い(80μg/lま で)。工業生産から発生する大気汚染の程度は低いが、鉱山の選鉱くずによる 水の汚染は重要である。また化石燃料の燃焼も水銀の汚染源の一つである。塩 素アルカリ工業および旧来の製法による木材パルプ工業も大量の水銀を放出し た。水銀の使用量は減少しつつあるが、高濃度の水銀は工業的利用に関連した 堆積物中に現在でも存在している。一部の水銀化合物類は、農業において主と して殺菌剤として用いられてきた。
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1.3 生物における取り込み・喪失・蓄積  水銀塩類は水中の生物類により容易に取り込まれ、有機水銀の場合にはその 程度はさらに高い。水生無脊椎類および大多数の水生昆虫類は、水銀を高濃度 にまで蓄積する。魚類が暴露される環境中の水銀の大部分は無機水銀であるが 取り込まれた後には主としてメチル水銀として生体組織内に保有される。メチ ル化の原因は不明確であるが、水生システム中で細菌の作用がメチル化に導く との有力な徴候がある。メチル水銀の環境中での濃度は、細菌のメチル化と脱 メチル化との間のバランスに依存している。魚類中のメチル水銀は細菌による 無機水銀のメチル化によるもので、それは環境中あるいは魚の鰓(えら)、体 表あるいは消化管ので行われる、との徴候がある。また、魚自身が水銀をメチ ル化あるいは脱メチル化する、との徴候も少しはある。魚類からのメチル水銀 の排出は遅く(半減期は数か月あるいは数年のオーダ)、その他の水生生物に おいても遅い。無機水銀の喪失はより速やかであるため、魚類中の水銀の大部 分はメチル水銀のかたちで保有される。陸生生物も水銀に汚染されており、そ れらの中で鳥類は最もよく研究されている。河口で餌を取る海鳥類は最もひど く汚染されている。鳥類中に保有されている水銀の形態はさらに変化し易く、 種類・臓器・地理的な場所に依存する。  1.4 微生物への影響  水銀は、微生物に対して毒性を示す。無機水銀では培養基中の5μg/lの濃度 において、また、有機水銀化合物類では少なくともこの10分の1以下の濃度に おいての影響が報告されている。有機水銀は殺菌剤として用いられてきた。有 機水銀の毒性に影響する一つの要因は、細胞による水銀の取り込み率である。 水銀は、外見上は結合部位の数が限られている微生物類の細胞壁あるいは細胞 膜に結合している。その影響は細胞密度と基質中の水銀濃度に関連することを 意味している。これらの影響はしばしば不可逆的であり、低濃度の水銀は主と して微生物に対し有害性をもたらす。  1.5 水生生物への影響  有機のかたちの水銀は、水生生物に対して、一般的には無機のかたちのもの よりも毒性が強い。水生植物が影響をうける濃度は、無機水銀では1mg/lに近 いが、有機水銀ではずっと低い。水銀に対する水生無脊椎類の影響は著しく変 化し、一般的には、幼生期は成長時よりも高い感受性を示す。淡水魚類に対す る96時間のLC50(50%致死濃度)は33〜400μg/lの間を変動し、海水魚類で はより高い。しかし、有機水銀化合物類の毒性はさらに高い。毒性は、温度・ 塩分・溶存酸素・水の硬度に影響される。致死量以下の濃度(sublethal concentration) の水銀に暴露された魚類には、種々の生理学的・生化学的異常が報告されてい るが、これらの影響の環境上の重要性を評価するのは困難である。繁殖も水銀 により悪影響をうける。
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 1.6 陸生生物への影響  水銀化合物類の毒性影響に対する植物の感受性は、一般的には低い。無機水 銀含有の飼料で飼育された鳥類は、食餌摂取量の低下と、それに次いで成育不 良を示した。その他のよりとらえにくい酵素システム・心臓血管系機能・血液 パラメーター・免疫反応・腎臓の機能と構造・行動などへの影響が報告されて いる。有機水銀化合物類は、鳥類に対して無機水銀よりも強い毒性を示す。  1.7 野外における水銀の影響  有機水銀による海洋の汚染は、日本においては、魚類の死と魚類を食餌とす る鳥類の死亡を招いた。この水俣における事件以外では、水銀の局所的放出の 影響調査はほとんど行われていない。ヨーロッパにおける種子への有機水銀殺 菌剤の使用は、穀物を食餌とする多数の鳥類を死亡させ、同時にそれらの死体 を捕食する鳥類も死亡させた。鳥類の卵の中の水銀残留物は、卵殻の幼胚の死 亡と関連が認められた。鳥類とそれらの卵の中の有機塩素残留物の存在は、水 銀の影響の正確な評価を困難にしている。しかし、これはある種の猛禽類の個 体数減少の寄与要因の一つと考えられる。
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2.評  価  環境に対する水銀の有害性を評価するには、研究室における実験を生態系に 外挿することが必要である。これは、次の理由により十分に慎重に実施しなけ ればならない。 (1) 水銀の特性(speciation)と、その土壌・堆積物・有機物質・生物相 などの環境構成要素類への吸着は、環境中の生物による水銀の利用性(availability) を限定している。 (2) 限られた研究では、温度・pH・水の化学的構成・土壌の種類・地質構 造などの環境変数は、狭い範囲の生物種類に対して、水銀の取り込みと作用の 双方に影響を及ぼすことを示している。この影響を十分に評価するためには、 熱帯条件や酸性雨などの情報は不十分である。 (3) 水銀の生物学的利用性を測定したデータはきわめて少ない。大多数の データは、生物により取り込まれる成分ではなく、少数のあるいはトータルの 金属濃度を示しているに過ぎない。このため、暴露の正確な評価は難しい。 (4) 環境における生物は金属の混合物に暴露されているが、コントロール された実験からの金属混合物の挙動に関するデータは限られている。 (5) 実験的な研究はきわめて少なく、たとえあったとしても、自然界や生 態系の代表的あるいは重要な構成要素の生物種類や生物社会について実施され ているに過ぎない。それらの研究では、個体群間のすべての相互作用およびこ れらの個体群に影響を与えるすべての環境要因については検討されていない。  生物社会に対するとらえにくい悪影響が、急性毒性についての実験室研究が 示唆するよりはずっと低い濃度、おそらく一桁程度低い量で起こるのであろう。
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2.1 海洋環境 種々の段階の海洋水生生物は、生体組織内に水銀を蓄積する。この水銀は、有 機性の場合には長期間残留する。水銀に対する水生生物の感受性は多数の要因 により影響される。これらには、ライフサイクルの段階(幼生期は特に敏感で ある)、耐性の形成、水温、塩分が含まれる。ある深刻な汚染では、魚類の死 亡を生じさせた。これらの追跡研究は少ないため、長期の有害性の評価は不可 能である。毒性影響は、非汚染の海洋環境よりも遙かに高い濃度においてのみ 実験的に作られてきた。さらに、研究の大多数は急性の致死性について、主と して無機水銀化合物が用いられてきた。鳥類の中で特に沿岸に棲む種類あるい は河口で餌をあさる種類は水銀汚染の影響をうけてきた。このため繁殖に悪影 響を蒙り、個体群の安定性が損なわれている。 2.2 淡水環境  水銀化合物類は淡水微生物に対して急性毒性を示す。光合成および、または 成育をパラメーターとして用いた無機水銀のNOTEL(No‐observed‐toxic‐effect‐level) (無毒性影響量)は、生物の種類、培養中の細胞の密度、実験条件に依存し、 1〜50μg/lの範囲である。混合飼育中の種々の生物種は、水銀塩化物40μg/l において影響をうけるであろう。有機水銀化合物類についてのNOTELは低く、 無機水銀の1/10〜1/100である。  水生植物類は、800〜1,200μg/lの濃度の無機水銀の暴露後において損傷を うける。有機水銀の毒性影響を示す濃度は、無機水銀の1/10〜1/100である。  多くの水生無脊椎動物は水銀毒性に感受性が高く、特に幼生期では著しい。 有機水銀化合物類は無機水銀の1/10〜1/100の濃度で毒性を示す。最も敏感なミ ジンコ属の繁殖阻害に対するNOTELは、無機水銀において3μg/l、メチル水銀で 0.04μg/l以下である。  淡水魚類は約30μg/lの低濃度の水銀で致死反応を示した。同じ静的条件下で は、幼生期で10倍以上高い感受性が見られた。流水試験(flow‐through test) においては、魚類は100倍以上の感受性を示した。静的および流水の双方の試験 において有機水銀化合物類は無機化合物類よりも約10倍強い毒性を示した。最 も鋭敏なパラメーターに対するNOTELは0.01μg/l以下であろう。  両生類の水生発生段階では、魚類におけると同様な水銀化合物類への感受性 が示されている。
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2.3 陸生環境  現在の知識では、陸生生物がうける正確な暴露あるいは水銀濃度の決定は不 可能である。しかし、土壌・土壌水を通しての暴露および食品は最も重要であ り、開水域(open water)および空気経由の暴露はそれほど重大ではない。  研究室の実験では、水銀は広範囲の濃度で陸生生物に対して毒性を示す。し かし、これらの実験の大多数は、高い暴露濃度(鳥類)あるいは環境内におい ては非現実的な暴露経路(植物の水耕栽培)で実施されている。  種子殺菌剤として用いられた水銀製剤類による暴露以外は、自然土壌中で成 育する陸生の植物類・鳥類・哺乳類には急性影響は見られない、ということが できよう。その他の水銀による影響は、海洋環境中の鳥類において認められる。
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