環境保健クライテリア 100
Environmental Health Criteria 100


塩化ビニリデン  Vinylidene Chloride


(原著187頁,1990年発行)

-目次-
1.物質の同定、物理的・化学的特性、分析方法
2.暴露の発生源および濃度
3.吸収、分布、代謝、排泄
4.実験動物および細胞系への影響
5.ヒトへの影響
6.勧   告
7.国際機関によるこれまでの評価

1.物質の同定、物理的・化学的特性、分析方法
塩化ビニリデン(C2H2Cl2)は、揮発性で「甘い」匂いをもった無色の液体であり、爆発性の過酸化物類の生成を防止するため、p-メトキシフェノールにより安定化されている。塩化ビニリデンは、1,1,1-トリクロロエタンの製造、モダアクリル繊維(modacrylic fibers)および共重合体(塩化ビニルあるいはアクリロニトリルとの)の生成に用いられる。空気、水、包装フィルム、生体組織、食品、土壌中の塩化ビニリデンの測定に対してガスクロマトグラフ法が開発されてきた。最も鋭敏な検出法は電子捕獲法である。
a 物質の同定
化学式C2H2Cl2
化学構造  3次元
分子量96.95
一般名vinylidene chloride
IUPAC名1,1-dichloroethylene
その他の名称1,1-dichloroethylene;1,1-dichloroethene;1,1-dichloro;VDC; 1,1-DCE;VC;vinylidenedichloride;chlorure de vinylidene(France);asym-dichloroethylene;NCI-C54262
商品名Sconatex
CAS登録番号75-35-4
EEC番号602-025-00-8
NCI番号C54262
RTECS番号KV9275000
換算係数  (25℃,1atm)1ppm=4mg/m3
1mg/m3=0.25ppm
b 物理的・化学的特性
表 塩化ビニリデンの物理的・化学的特性a
物理的状態 揮発性、透明無色液体
臭気 甘い匂い
ヒトによる明確な検出限界は、およそ2,000〜4,000mg/m3 b
相対比重 (20℃/4℃) 1.213
蒸気密度 (空気=1,20℃) 3.34
飽和空気中密度 (空気=1) 2.8
沸点 31.56℃
融点 -122.5℃
臨界温度 220.8℃
臨界圧 51.3atm
蒸気圧 (-20℃) 7mmHg
     (0℃) 215mmHg
     (20℃) 495mmHg
     (25℃) 591mmHg
溶解性 水 (21℃) 2.5g/kg
     有機溶媒 ジエチルエーテル、クロロホルム 非常に溶解する
ベンゼン、アセトン、エタノール 溶解する
log n-オクタノール/水分配係数 1.66  (計算値)c
引火点 (開放系) -15℃
     (閉鎖系) -19℃
発火温度 513℃
大気中引火限界 5.6〜16体積%
大気中飽和濃度 (20℃) 2,640g/m3
重合熱 (25℃) 18kcal/mol
蒸発熱 (31.6℃) 6.3cal/mol
生成熱 -25.1kcal/g (液体モノマー)
1.26kcal/g (気体モノマー)
燃焼熱 (25℃) 261.9kcal/mol (液体モノマー)
屈折率 (ND)(20℃) 1.4247
粘性率 (20℃) 0.3302P・s
安定性 0℃より高温では酸素の存在のもとで容易に重合する
安定剤を添加せず、酸素の存在のもと、塩化ビニリデンは-40℃で、爆発性の過酸化物を生成するd
その他の特性 塩化ビニリデンの過酸化物は分解すると、ホスゲン、ホルムアルデヒド、塩酸を生成するe
酸化物質と激しく反応する
また熱や炎にさらすと非常に危険であるf

a特記以外はBuckingham(1982);Gibbs & Wessling(1983);Hushon & Kornreich(1978);Shelton et al.(1971);Weast(1984);Wessling & Edwards(1971)より
bTorkelson & Rowe(1982)より
cRekker(1977)より
dBuckingham(1982)より
eGibbs & Wessling(1983)より
fSax(1984)より
表 塩化ビニリデンの不純物の量(工業用塩化ビニリデン>99.6%)a
不純物ジクロロアセチレン10mg/kg
モノクロロアセチレン1mg/kg
塩化ビニル20mg/kg
100mg/kg
酸性度(HClとして)15mg/kg
0.5mg/kg
過酸化物(H2O2として)1mg/kg
他のハロゲン化不純物500mg/kg(合計)

a ECETOCより
記  ヒドロキノンモノメチルエーテル(p-メトキシフェノール)は最も一般的に用いられる反応抑制剤で、50〜200mg/kg程度添加される。塩化ビニリデン合成の副産物として、発がん物質ジクロロアセチレンが生じ不純物となる。



2.暴露の発生源および濃度
塩化ビニリデンの生産量(最大約2万3,000トン)の約5%までが、毎年大気中に排出されている。高い蒸気圧と低い水溶解性により、他の環境媒体中と比較して、大気中において比較的高濃度を形成し得る。大気中の塩化ビニリデンの半減期は、約2日と考えられている。

水中における環境濃度はきわめて低い。未処理の工場廃水においてさえ、その濃度は水生生物に対して毒性を示すmg/lの範囲よりもずっと低く、μg/lのレベルを超えることはまれである。未処理の飲料水中の濃度は一般には検出できない。処理済みの飲料水においては、塩化ビニリデンの濃度は20μg/lまでの濃度が検出されているが、一般には1μg/l以下のレベルが見出されている。食品中では塩化ビニリデンは通常検出されず、検出された最高濃度は10μg/lであった。

塩化ビニリデンへの暴露は、主として吸入を通じてであるが、皮膚および眼の汚染も起こる。各国の最高勧告値あるいは時間荷重平均(TWA)の暴露限界の規制は8〜500mg/m3の範囲であり、あるいは、国によっては信頼し得る最低検出濃度としている。短期暴露限界は16〜80mg/m3、天井値は50〜700mg/m3の範囲である。




3.吸収、分布、代謝、排泄
塩化ビニリデンは、哺乳類においては、呼吸器経路および経口により容易に吸収されるが、経皮吸収についてのデータは入手できない。塩化ビニリデンは齧歯類の体内では広く分布し、最高レベルに近い濃度は肝臓および腎臓で見出される。無変化の塩化ビニリデンの肺からの除去は少なくとも二相性(biphasic)と用量依存性を示し、代謝を飽和させる用量レベル[ラットにおいては、吸入経由の場合約600mg/m3(150ppm)]がより重要である。ラットにおいては、絶食は経口投与量の代謝の減少と、それに次ぐ塩化ビニリデンの呼気中排出量の増加を示した。

ラットにおける代謝の主要経路の特性は解明されてきている。その主力の第一相の代謝にはチトクロームP-450およびモノクロロ酢酸の生成(エポキシド経由の可能性があるが、必ずしもそうとは限らない)を含んでいる。チトクロームP-450の活性は塩化ビニリデンにより誘発される。第一相の多数の代謝生成物は、その後の変化に先立ってグルタチオンおよび/またはホスファチジルエタノールアミンと結合する。マウスにおける代謝率はラットにおけるよりも大きく、類似した代謝の態様を示し、グルタチオン結合体が相対的に高い比率を示す。塩化ビニリデンはヒトのミクロソームのチトクロームP-450によっても代謝されることが示されている。

齧歯類における塩化ビニリデンの代謝は、グルタチオンの減少と、グルタチオン-S-転移酵素の阻害をもたらす。




4.実験動物および細胞系への影響
4.1 組織への共有結合
[14C]-標識の放射性塩化ビニリデンの共有結合は齧歯類の肝臓、腎臓、肺内に存在し、これらの臓器内の毒性に関連する。共有結合と毒性は、グルタチオンの減少により増強され、マウスではラットにおけるよりも低い用量レベルにおいて、肝臓と腎臓において起こる。多数の塩化ビニリデン代謝生成物はin vitro(試験管内)においてチオール類と共有結合する。
4.2 急性毒性
塩化ビニリデンに対する急性LC50(50%致死量)は大幅に変化するが、塩化ビニリデンに対してマウスはラットやハムスターよりもずっと感受性が高い、という事実が認められている。ラットにおける4時間のLC50(50%致死濃度)値の推定では、約8,000〜128,000mg/m3(2,000〜32,000ppm)、マウスでは460〜820mg/m3(115〜205ppm)、また、ハムスターの場合には6,640〜11,780mg/m3(1,660〜2,945ppm)の範囲であった。LC50の推定における不確定性は、濃度と死亡率との関連の非直線性から生ずるのであろう。すべての動物種において、オスのLC50はメスよりも低い傾向があり、絶食(グルタチオンの減少を招く)は、これら3種のすべての動物において毒性を増強した。ラットおよびマウスにおける経口投与後のLD50値は、それぞれ約1,500および200mg/kgであった。実験動物における急性吸入毒性は、粘膜における刺激、中枢神経系の抑制、進行性の心毒性(洞性徐脈と不整脈)を発現した。

損傷は肝臓、腎臓、肺において発生した。塩化ビニリデンの肝毒性と腎毒性に対してラットよりも感受性の高いマウスでは、腎損傷とDNA合成の増加は、塩化ビニリデン40mg/m3(10ppm)の6時間の暴露により誘発された。吸入の場合と同様に、塩化ビニリデンの経口投与により冒される主な臓器は、肝臓、腎臓、肺である。肝毒性をもたらす事象の結果には、糸粒体の損傷の徴候に次いで起こる胆汁細管内の初期の変化が含まれるように見える。これは細胞内質の網状組織への損傷と細胞死に先立って起こる。塩化ビニリデン誘発の肝臓と腎臓への毒性は、脂質の過酸化が原因でないことは明らかである。細胞内のCa++濃度の上昇は肝細胞の毒性に何らかの役割を果たすのであろう。

塩化ビニリデンの毒性作用は、その一部分は少なくともチトクロームP-450活性(これは解毒作用にも関与する)に依存し、グルタチオン減少により増強される。肝毒性はエタゼルおよびチロキシンにより強化され、ジチオカーブおよび(+)-カテキンにより阻害され、アセトンにより調節される。

4.3 短期試験
肝臓、腎臓、およびより軽度であるが肺の傷害が、40〜800mg/m3の塩化ビニリデンに4〜8時間/日、4日以上/週の短期実験における吸入暴露により、齧歯類において観察された。マウスは、ラット、モルモット、ウサギ、イヌ、リスザルよりも感受性が高く、毒性はマウスの系統種間で差異があった。一般的に、メス・マウスはオスよりも低い感受性を示した。ラットとマウスにおける肝毒性は、それぞれ800mg/m3以上(200ppm以上)、あるいは220mg/m3(55ppm)の塩化ビニリデンへの間欠暴露において報告されている。数日間の継続的暴露による肝毒性の発現に要する濃度は、ラットに対しては240mg/m3(60ppm)、マウスでは60mg/m3(15ppm)であった。これらの間欠的および継続的暴露はマウスにおいては腎毒性をも生じさせた。スイス系のオス・マウスは、塩化ビニリデン誘発の腎毒性に対し特に高い感受性を示した。このオス・マウスは塩化ビニリデン200mg/m3(50ppm)への短期継続暴露において死亡した。

イヌ、リスザル、ラットの肝毒性に対する無影響量は、90日間の継続暴露の場合、約80mg/m3(20ppm)であった。短期(約3カ月間)経口投与実験のラット(20mg/kg/日まで)とイヌ(25mg/kg/日まで)の場合では、ラットにおける軽微で可逆性の肝臓傷害以外には、いかなる毒性の証拠も示されなかった。

4.4 長期試験
ラットによる塩化ビニリデンの長期間欠的暴露実験では、300mg/m3(75ppm)においてごく軽度の可逆性の肝臓の変化を示した。長期暴露に対するラットの最高耐容量の600mg/m3(150ppm)においては、壊死をともなう肝臓傷害は明らかであった。マウスにおける肝臓傷害の証拠を有する高い死亡率は200mg/m3(50ppm)で観察された。また、その腎臓毒性は100mg/m3(25ppm)の長期暴露後おいて明らかであった。また、30mg/kgまでの塩化ビニリデンを1年間経口投与されたラットにおいても、ごく軽微の肝臓の変化が発生した。これらのデータは、明確な無影響量(NOEL)を検出できなかった。ラットとマウスに対するそれぞれ5および2mg/kg/日の塩化ビニリデンの長期経口投与後には、各々に腎臓の炎症と肝臓壊死を誘発させる、との証拠が別々の研究から得られている
4.5 遺伝毒性および発がん性
塩化ビニリデンは、細菌および酵母においては、哺乳類ミクロソームの代謝活性化システム(S9)の存在下においてのみ変異原性が見出された。本化合物はラットの分離肝細胞において不定期DNA合成を誘発し、S9添加時の培養細胞において姉妹染色分体交換と染色体異常の頻度を増加させた。これとは対照的に、哺乳類の遺伝子突然変異は認められなかった。In vivoの暴露後には、少数ではあるが統計学的に有意のDNA結合の増加が報告されている。塩化ビニリデン40および200mg/m3(10および50ppm)の6時間暴露後において、DNA結合はラットよりもマウスの細胞に、また肝臓よりも腎臓に多く認められた。さらに、塩化ビニリデンはマウスの腎臓において不定期DNA合成をわずかに増加させた。齧歯類のin vivo(生体内)暴露後には、チャイニーズ・ハムスターの骨髄における染色体異常の誘発を示した1件の報告以外には、有力な致死的影響あるいは細胞遺伝への影響の証拠は存在しなかった。

発がん性試験は、3種類の動物(ラット、マウス、ハムスター)について実施された。スイス系マウスにおいては、100あるいは200mg/m3(25あるいは50ppm)の塩化ビニリデンへの長期間欠的暴露後に、発がん性(腎臓腺がん)の明らかな誘発があったが、0あるいは40mg/m3(0あるいは10ppm)においては認められなかった。

この腎臓腫瘍は観察された腎臓細胞毒性と何らかの関連を有し、この特別な動物種・性別・臓器において、腎臓傷害の反復は直接的に非遺伝毒性的メカニズムによる発がん反応に導く、あるいは代謝生成物の遺伝毒性の発現を促進する、のいずれかが可能である。しかし、この結論はin vivoの遺伝的影響についてのデータの入手が限定されていること、塩化ビニリデンはイニシエーターとして作用する、との知見に照らしてみると不確実である。

同一の研究において、統計学的に有意の増加の肺腫瘍(主として両性のマウスにおける腺腫)と乳房がん腫(メス)が認められたが、用量-反応関係は見出されなかった。成獣のラットの吸入においては、用量-反応に関連性のない乳腺腫瘍の軽度の増加と、ラットの子宮内(in utero)および出生後の暴露による白血病の軽度の増加が報告されている。これらの観察の評価はできない。

4.6 生殖毒性
飲料水中の塩化ビニリデン(200mg/lすなわち200ppmまで)へ継続的に暴露されたラットにおいては、受(授)精能力への影響の証拠は認められない。ラットおよびマウスにおける臓器発生の各期間における塩化ビニリデンの1,200mg/m3(300ppm)までの22〜23時間の吸入では、母体毒性に由来する影響以外の胎仔の奇形の誘発は見られなかった。

ラットおよびウサギにおける640mg/m3(160ppm)までの塩化ビニリデンの7時間/日の吸入、妊娠ラットの流産危険期間中への約40mg/kg/日の経口摂取においては、母獣への毒性を生じさせる投与量以下では胚芽あるいは胎仔への影響は認められなかった。しかし母獣への毒性として体重増加抑制を示す用量においては、胚芽および胎仔への毒性と胎仔の奇形が見られた。




5.ヒトへの影響
16,000mg/m3(4,000ppm)の濃度の塩化ビニリデンは、人事不省にいたる中毒を生じさせる。p-メトキシフェノールで安定化した液状の塩化ビニリデンも呼吸器官、眼、皮膚に対する刺激物質である。麻酔濃度以下、長期、反復短期の暴露に対しては腎臓と肝臓の傷害が報告されている。疫学研究の評価は、コホート(訳者注:疫学研究において対象とする特定の集団)の規模による限界、塩化ビニルとの共通暴露、喫煙習慣に対する注意不足により妨げられている。

塩化ビニリデンに暴露されたヒトのがん発生率には統計学的に有意の増加はないが、その疫学研究は不十分であり、発がんのリスクはないとの結論を下すことはできない。ヒトの生殖に対する塩化ビニリデンの影響についての情報は入手できない。




6.勧   告
6.1 将来の研究に対する勧告
塩化ビニリデンの世界の年間生産量、他の化学製品の分解からの放出などを含め、すべての発生源からの環境への移入量のより正確な推定が必要である。

環境中での運命の推測のための、実験上の証拠はほとんどない。分解率および、空気中、土壌中、水中、堆積物中における変質生成物、非哺乳類の代表的生物種における代謝についての情報が必要である。

代表的な水生生物(魚類、甲殻類、軟体動物)について、種々の病理学的反応を検討する長期毒性試験を実施すべきである。

短期および長期暴露の毒性影響についての塩化ビニリデンの閾値、メカニズム、動物とヒトにおける暴露の安全レベルの確立の基礎のより正確な決定に必要である。

発がん性についての現存するデータを、さらに徹底的に活用すべきである。もし、将来において発がん性研究が実施される場合には、それらは塩化ビニリデンの特性に対応するように特別に計画され、容認された生涯期間の生物試験手法に準拠しなければならない。その研究においては、生体内における本化学物質の短い半減期、暴露開始時の年齢の重要性、毎日の暴露時間、投与量決定に関連するその他の適切な情報を考慮すべきである。試験に用いる動物の種類と系統については注意深い選択が必要である。これらの毒性・代謝データ、薬物動態データもきわめて有用である。

ヒトの集団に対する塩化ビニリデンの暴露(長期低濃度暴露を含む)の影響評価を可能にするため、疫学的研究が必要である。ここでは、塩化ビニリデンに暴露された全般の未選定の集団の有病率と死亡率について、長期追跡研究を実施すべきである。早発性脳血管疾病とがんなどの影響についての情報は特に必要であり、研究には喫煙や飲酒量のような交絡因子に配慮すべきである(理想的には症例対照研究として)。

各製造現場における少人数の問題を解決するため、データの共同利用によるマルチセンター方式の研究は、現在進行中および将来の研究の双方において貴重なアプローチをもたらすであろう。最近数年間の規制措置の防護的効果を評価するため、現在実施中の研究の結果との比較に過去のデータを参考として利用すべきである。

In vivo毒性研究で得られた結果をさらに解明するため、各種の実験動物およびヒトにおいて、特に腎臓、肝臓、肺における塩化ビニリデンのin vivo/in vitroの薬物動態と代謝を比較する必要がある。遺伝学的メカニズムの役割を検討するため、各種動物における発がん性の標的部位における塩化ビニリデンの遺伝毒性についての比較データが必要である。

このレビューにおいて報告された神経毒性学的知見に鑑み、塩化ビニリデン中毒の病因におけるモジュレーター(modulator system)の役割の検討が必要である。

ヒトの塩化ビニリデン中毒の治療におけるN-アセチルシステインのようなスルフヒドリル剤使用の価値は、実験動物研究において検討すべきである。

6.2 個人防護および中毒の治療
6.2.1 個人防護
勧告限界値以上の短期吸入暴露が起こり得る工場の状況では、有機蒸気用のフィルターを装備したフルフェース・マスクを使用すべきであり、緊急の使用が必要な場所では、給気装置つきのマスクを準備すべきである。塩化ビニリデン取り扱い者は、身体との接触を防ぐため、保護眼鏡を含む適切に管理された防護服を着用すべきである。工場内で流出や漏洩の起こりそうな場所での適切な濾過排気装置により、常に気流を維持すべきである。分配作業中における塩化ビニリデン排出に対するモニタリングを勧奨する。塩化ビニリデンの漏洩事故では、小規模の場合には直接蒸発させるか、あるいは合成泡剤の膨張を利用して蒸発を制御して消失させる。水の噴霧カーテンは泡剤から蒸気を分散させるために用いられる。
6.2.2 ヒトの中毒の治療
過剰暴露あるいは摂取の場合には、医学的な助言を入手すべきである。塩化ビニリデンの刺激特性のため、肺、皮膚、眼に特別の注意を払うべきである。心臓、肝臓、腎臓、中枢神経系の機能を監視すべきである。動物データでは、塩化ビニリデンはエピネフィリン誘発の不整脈の感受性を著しく増強するため、この薬品の使用は避けるべきである。重篤な低血圧は、全血あるいは血漿増量剤の輸液により治療される。既知の解毒剤は存在しない。

塩化ビニリデンの吸入による中毒の患者は、新鮮な空気中で半腹臥位にし暖かく保つべきである。もし患者が人事不省あるいは昏睡の場合には、気道を十分に確保し、酸素を投与すべきである。もし必要ならば人工呼吸を行うべきである。

塩化ビニリデンを摂取した後では、口を水でゆすぐべきである。塩化ビニリデンを喉頭部や肺に吸入する危険があるため、嘔吐をさせてはならない。胃洗浄および/または活性炭あるいは液状パラフィンの経口投与は、摂取後約1時間以内に与えれば、塩化ビニリデンの生物学的利用能の低減に有効で、摂取後4時間までには効果が証明されるであろう。

塩化ビニリデンにより眼が暴露された場合には、直ちに水を注いで少なくとも15分間洗い、医学的助言を求めるべきである。

皮膚暴露の場合には、汚染された衣服を除去し、冒された皮膚の部分を石鹸と水で洗うべきである。




7.国際機関によるこれまでの評価
塩化ビニリデンはWHOにより1984年に「飲料水質指針」の中で評価された。その結論は次の通りである。

「飲料水中では、ジクロロエタン類は、一般的に1μg/l以下の濃度で検出されている。この異性体は、常に区別されるとは限らない。1,1-ジクロロエタンは実験動物に対する発がんの証拠のため最も懸念される異性体である。それは各種の重合体の合成に広く用いられる化学物質の一種で、例えば食品包装材はしばしば1,1-ジクロロエタンの共重合体で製造されている。1,1-ジクロロエタンはマウスとラットの双方において乳房腫瘍を、また、マウスにおいて腎臓の腺がんを発生させる(13)。それは、エームス・テストにおいても変異原性を示す。勧告指針値の0.3μg/lを算出するために、スイス系マウスの腎臓腺がんの発生率のデータに直線型多段階外挿モデルが適用された。」

塩化ビニリデンは、国際がん研究機関ワーキング・グループにより、1978、1985、1987年に評価された。1987年には、次の結論が報告された。
「塩化ビニリデンはグループ3に分類される。」

「A.ヒトに対する発がん性の証拠は不十分」
「塩化ビニリデンに暴露された138名の米国の作業者についての1件の疫学研究では、がんの発生増加は見出せなかったが、追跡調査は不完全であり、40%近くの作業者の潜伏期は最初の暴露から15年以下であった。塩化ビニリデンに暴露された629名の西ドイツの作業者における研究では、がんによる7件の死亡(5件は気管支がん)が報告されているが、期待値(the expected value)を超える数値ではなかった。作業者中で見出された2件の気管支がんは2件とも37歳の人であり、一方、35〜39歳の人々に対する期待値は0.07であった。これら2件の研究の限界からは、本物質のヒトに対する発がん性を評価することはできない。塩化ビニリデン暴露と肺がんの発生増加との間の特別の関連性は見出せないことが、以前に米国の合成化学工場において認められている。」

「B.動物に対する発がん性の証拠は限定的」
「塩化ビニリデンは、マウスとラットでは経口投与と吸入により、マウスにおいては皮下投与と経皮適用により、ハムスターでは吸入により発がん性が試験された。マウスとラットにおける経口投与では陰性の結果を示した。ラットまたはハムスターの吸入試験では、投与に無関係の新生物が認められた。マウスでは投与に関連性のある腎臓腺がんの発生率の増加がオスにおいて観察された。また、メスでは乳房がん腫、オス・メス双方では肺腺腫の発生率が増加した。メスのマウスにおける皮膚塗布試験では、塩化ビニリデンはイニシエーターとしての活性を示したが、反復皮膚適用の試験では皮膚腫瘍は発生しなかった。皮下投与の反復では、マウスの注射部位に腫瘍は見られなかった。」

「C.その他の関連データ」
「塩化ビニリデンの、ヒトにおける遺伝的および関連の影響についてのデータは入手できない。」
「塩化ビニリデンは、マウスあるいはラットにおいて優性致死突然変異を誘発せず、また、投与を受けたラットにおいてin vivoの骨髄細胞における染色体異常を引き起こさなかったが、投与されたマウスでは不定期DNA合成を誘発した。それは、染色体異常あるいはin vitroのチャイニーズ・ハムスター細胞における突然変異は起こさなかったが、ラットの肝細胞において不定期DNA合成を誘発した。塩化ビニリデンは植物細胞に変異原性を示し、酵母菌において突然変異と遺伝子変換を引き起こした。また、それは細菌に対して変異原性を示した。