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びらん剤(Blister Agents、Vesicants)


 びらん剤は皮膚に水疱を起こす。代表的なものは硫黄マスタード(マスタードガスと呼ばれることも多い)であり、これまで実戦でもしばしば使われている。液体、蒸気ともびらん性があり、水泡等を生じる。硫黄マスタードは1800年代半ばにそのびらん性が発見された。化学兵器として用いられたのは1917年ベルギーのイープル(Ypres)であり、その名前からイペリット(Yperit)とも呼ばれた。第一次世界大戦では硫黄マスタードによって多くの死傷者が出た。びらん剤による損傷の程度は、濃度、暴露時間、暴露経路に依存する。窒素マスタードは1920〜1930年代に合成され、HN-1、HN-2,HN-3があるが、化学兵器として使用されたことはない。
 びらん剤としてはマスタード類の他に、ヒ素化合物であるルイサイトがよく知られている。これは、第一次世界大戦後期に米国で合成された。ルイサイトの解毒剤であるBALは、現在、重金属キレート剤として医療に用いられている。
 この他に、びらん剤としてはハロゲン化オキシムがある。ハロゲン化オキシムの掻痒性は第二次大戦のずっと以前から知られており、ジヨードホルムオキシム、ジブロモホルムオキシム、モノクロロホルムオキシム、ジクロロホルムオキシムなどがある。この最後の物質が通常ホスゲンオキシム(CX)として知られており、もっとも刺激性が強い。ホスゲンオキシムは腐食性掻痒性物質で、この物質の性質や効果は他のびらん剤とは非常に異なる。


1 マスタード類

 硫黄マスタードにはHD(蒸留マスタード)とH(精製されていないもの)、窒素マスタードには、HN-1、HN-2,HN-3がある。
 ルイサイトおよびホスゲンオキシムは接触すると直ちに痛むが、マスタード類は暴露時には痛みはほとんどないかあってもわずかで、影響がわかりにくい。暴露後数時間は損傷の兆候が現れないこともある。したがってすぐの見かけより実際にはもっと損傷がひどいことがよくある。また効果的な治療法もない。
 眼は低濃度のマスタード類にでも非常に感受性が高い。

1−1 マスタード類の物理的化学的性質

(1) 硫黄マスタード (サルファーマスタード)
 硫黄マスタードは、約30%の不純物を含みHと命名されている。蒸留により製造されたものはほとんど不純物を含まず、HD(蒸留マスタード : Distilled Mustard)と命名されている。

硫黄マスタード:   マスタードガス、イペリット
  Sulfur mustard
  Yperit
  2,2'-Dichloroethyl sulphide
  Bis(2-chloroethyl)sulphide

(2) 窒素マスタード(ナイトロジェンマスタード)
  HN-1: N-Ethyl-2,2'-di(chloroethyl) amine; C2H5N(CH2CH2Cl)2
  HN-2: N-Methyl-2,2'-di(chloroethyl) amine; CH3N(CH2CH2Cl)2
  HN-3: Tri-(2-chloroethyl)amine ;      N(CH2CH2Cl)3
 化学剤としての用途ではHN-3が代表的なものであり、ここではHN-3について記載する。3つの窒素マスタードの中でHN-3がもっとも安定である。硫黄マスタードと似た毒性効果を有するが、硫黄マスタードに比べて水および酸化に対して強いため、除染が困難である。

窒素マスタード(HN-3)
  Tri-(2-chloroethyl)amine
  2,2',2"-trichlorotriethylamine

1−2 マスタード類の毒性および症状

(1) 作用機序及び毒性
 マスタード類(硫黄マスタード、窒素マスタード)は、活性なクロロエチル基を持つアルキル化剤として働く。クロロエチル基は体の中でCl-がとれて環状の中間代謝産物を形成し、これがDNA、RNA、膜タンパクなどをアルキル化する。
 マスタード類は反応性が非常に高く、細胞内外のタンパク質その他さまざまな物質と結合するが、体内に入ってからごく短時間のうちに組織と反応しそれ以上は反応しない。血液、組織、水疱内液はマスタードを含まず、体液や組織に接触しても他の者は被曝されない。
 マスタード類に暴露した場合、主に暴露面(皮膚、眼、呼吸器系)が損傷を受ける。全身作用としては、消化管、造血組織、リンパ組織、中枢神経系などが含まれる。死亡率はさほど高くない(5%以下との報告)。

 暴露経路:吸入、皮膚吸収 (液体、蒸気)、経口、皮膚や眼への局所刺激
 マスタード類による障害は暴露数時間後に現れてくる。最も一般的な作用は、皮膚(紅斑と水疱)、眼(軽度結膜炎から重度眼障害)、気道(上気道の軽度刺激から気道粘膜、筋肉の壊死、出血を引き起こす重度気管障害)である。
 大量のマスタード暴露により骨髄幹細胞が障害を受けることがある。消化管が障害されたり中枢神経症状が出ることもある。特異的解毒剤はなく、治療は対症療法である。迅速な除染が障害を軽減する唯一の方法である。

(2) 徴候、症状

硫黄マスタード(マスタードガス)
 硫黄マスタードは、乾いた皮膚より湿った皮膚の方が吸収されやすい。通常、致死的ではない。

 皮膚:暴露後2〜48時間で、紅斑やかゆみを生じ、さらに大きくて薄い半透明の帯黄色水泡ができる。水泡内の液は透明で、マスタードは含んでいない。水疱ができた場合、二次感染の危険性がある。体の湿った部分にもっとも激しく作用する。

 眼:軽症〜中程度の蒸気暴露では、暴露後3〜12時間で刺激、痛み、腫れ、流涙がみられる。高濃度の蒸気暴露の場合は1〜2時間で症状が現れる。上記の症状に加え、重症の結膜炎、羞明(まぶしがり症)、痛み、角膜損傷が生じる。液体が直接眼に触れると、角膜および虹彩の損傷を引き起こし失明することがある。

 呼吸器(吸入):暴露後2〜24時間で(暴露量による)、鼻水、くしゃみ、かすれ声、鼻血、息切れ、咳、副鼻腔痛など。重症の場合、致命的な肺水腫となることがある。

 消化管:腹痛、下痢、発熱、吐き気、嘔吐。

 他に、感情鈍麻、うつ状態などの中枢神経系への影響が見られる。
 マスタードガスは、発がん性物質である。

窒素マスタード
 マスタードガスとほぼ同様。


2 ルイサイト

 有機ヒ素化合物。ヒ素に結合しているクロロビニル基の数によって1〜3まで3種類あるが、一般にはクロロビニル基が1個付いたルイサイト1を、ルイサイトという。第一次世界大戦末期に合成された。加水分解速度が速く湿気を含む大気中や保管時の安定性が低い。
 ここではルイサイト1(ルイサイト)について記載する。

ルイサイト
  Lewisite
  2-Chlorovinyldichloroarsine
  (2-Chloroethenyl)arsonous dichloride
  Chlorovinylarsine dichloride

2−1 物理的化学的性質

2−2 毒性および症状

(1) 作用機序及び毒性
 暴露経路:吸入、皮膚吸収(液体、蒸気)、経口摂取、皮膚や眼への局所刺激
 ルイサイトに含まれる3価のヒ素はタンパク質や酵素のSH(スルフヒドリル)基と結合する性質があるため、ピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体などさまざまな酵素が阻害され、アセチルCoAの生成が阻害される。全体としてグルコースの生成・取り込みや還元型グルタチオンレベルが低下し、細胞の損傷を生じる。マスタード類よりも皮膚の損傷は重篤である。

 ルイサイトに暴露した場合、マスタードに比べて症状の発現が速い。マスタードの場合気が付かないうちに暴露されていることがあるのに対し、ルイサイトは蒸気でも液体でも直ちに痛みと刺激を感じる。

(2) 徴候、症状
 皮膚:数秒〜数分で痛みと刺激、15〜30分以内に紅斑、数時間以内に水疱が生じる。
     最初は赤い部分の中心に小さな水疱ができ、その後赤い部分全体に広がっていく。
     ルイサイトによる損傷は、マスタード類など他のびらん剤より治るのは速い。
 眼:接触すると刺激、痛み、腫れ、流涙。
 呼吸器:鼻水、くしゃみ、かすれ声、鼻血、息切れ、咳、副鼻腔痛など。
 消化管:下痢、吐き気、嘔吐。
 心臓血管系:”ルイサイトショック”や血圧低下が起こることがある。


3 ホスゲンオキシム

 非常に強い刺激性や腐食性がある。戦場で使用されたことはない。ホスゲンオキシムに関する情報はきわめて少ない。

ホスゲンオキシム
  Phosgene oxime
  Dichloroformoxime

3−1 物理的化学的性質

3−2 毒性および症状

(1) 作用機序及び毒性
 ホスゲンオキシムに関する情報は非常に少ない。
 暴露すると直ちに徴候や症状が現れる。眼、皮膚、上部気道を強く刺激する。
 暴露経路:吸入、経口摂取、皮膚や眼への局所刺激

(2) 徴候、症状
 皮膚:暴露後数秒で疼痛、30秒以内に暴露箇所に赤く縁取られた白い部分が生じ、約15分で発疹が生じる。
 24時間後には皮膚の白い部分が茶色に変わって壊死し、かさぶたができる。治るまでかゆみと痛みが続く。

 眼:激痛と刺激、流涙、おそらく一時的な失明。
 呼吸器:上部気道の刺激により、鼻水、かすれ声、副鼻腔痛。吸入や皮膚からの吸収により肺水腫になることがある。


4 その他
 びらん剤としては、これらの他に、フェニルジクロロアルシン(PD)、エチルジクロロアルシン(ED)が知られている。

(1) フェニルジクロロアルシン
  Phenyldichloroarsine

(2) エチルジクロロアルシン
  Ethyldichloroarsine
  Dichloroethylarsine
  Ethylarsonous dichloride

(3) フェニルジクロロアルシン、エチルジクロロアルシンの毒性および症状
 暴露経路:吸入、皮膚吸収(液体、蒸気)、経口摂取、皮膚や眼への局所刺激
 フェニルジクロロアルシンは水があると分解して塩化水素を生じる。嘔吐、流涙、水泡を生じ、肺、皮膚、消化管から吸収された場合、死に至ることがある。肺水腫を起こすことがある。



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