事故や病気で傷ついた臓器や組織を補う再生医療のひとつとして注目を集める細胞シート。患者本人の細胞を培養してシート状に加工して作るもので、東京女子医科大学は今年、iPS細胞から作った心臓の細胞シートを使った治療の開発に向け大阪大学などと共同研究を本格化させる。細胞シートの大量供給のための準備も進める。細胞シートの考案者で臨床研究をけん引する同大の岡野光夫教授に、細胞シートを使った再生医療の展望を聞いた。
■阪大と共同で動物治療研究
――今年の具体的な動きは。
「ひとつは、大阪大学の澤芳樹教授のグループと、iPS細胞から作った心筋細胞を細胞シートにして、動物の治療を試みる。効果や安全性などを検討する。すでにヒトのiPS細胞から心筋細胞を作ることには成功しており、2年後をメドに計画している重症な心臓病患者への治療に向けて弾みをつける。」
――細胞シートの強みは。
「細胞シートは再生医療を実現するためにはなくてはならない技術だと考えている。多くの細胞はあるていどまとまって機能するので、細胞をひとつひとつ移植してもうまく働かないものが多い。細胞同士がくっついた細胞シートは特殊な高分子を敷いた培養皿の上で細胞を増やし、さらにシート状に加工して取り出す。培地からはがすときに薬品などを使わずに温度変化ではがれる。薬品や物理的な衝撃で細胞の表面の膜たんぱく質などを壊さずに細胞を一定の塊のまま移植できるので、細胞の機能を温存できるのが強みだ。患部に貼ると、新しい細胞を補ったり治癒を促したりする効果があると考えている」
――ほかの臨床研究の計画や進捗状況は。
「肺に穴が開いて空気が漏れ出る気胸と、真珠腫という病気について、臨床研究を始めたいと考えている。肺気胸では、患者の皮膚から取った細胞でシートを作って穴に貼る。女子医大の外科グループと組む。難聴などを引き起こす真珠腫性中耳炎では、東京慈恵会医科大学の耳鼻咽喉科と共同で、患部を手術で取り出した後に細胞シートを移植し、聴覚を温存できるようにする治療を試みる。シートは患者の鼻の粘膜の細胞から作る」
「すでに、私たちと共同研究をしている企業の中には、実用化を見据えた動きも出ている。例えば、バイオベンチャーのセルシード(東京・新宿)は目の角膜の病気に細胞シートを使った治療を開発、フランスで臨床試験(治験)を終え、欧州での製造・販売の承認の取得を目指している。テルモも昨年2月から心臓病患者を対象に国内3つの病院で治験を始めた」
――昨年、日立製作所などと組んで細胞シートの全自動培養装置を開発した。その後の進展は。
「細胞シートを使った再生医療を実現するためにシートの供給技術の整備も進んでいる。細胞シートの全自動培養装置は、国の最先端研究開発支援プログラム(FIRST)で日立や日本光電などと開発を進めてきており、技術的にはほぼ完成した。患者の口の粘膜や足の筋肉組織などから細胞を取り出し、必要な細胞を培養して増やし、シートにするなどの工程をすべて人手に頼らずにできる。各工程を担う装置を組み合わせることで、さまざまな組織を培養もできる。手作業でシートを作るときに必要な専用の部屋や技術者が不要になり、製造コストなどを大幅に下げられる。今年中に、動物での治療実験を進め、最終的な性能を確認する予定。そのあと人間の細胞で試験につなげる」
■日本から世界の病院に供給
――全自動装置を使うことで、どんな再生医療の姿を描いているのか。
「新しい装置を設置した細胞工場に病院が患者から取りだした細胞を送ると、手術日までに細胞シートが作られて郵送で送り返される。日本の細胞工場で作ったシートを世界中の病院に供給する。日本発の技術で世界の患者を治したい。並行して細胞シートを使った治療ができる医師の養成も進めている。現在、欧米をはじめ、韓国・中国などから興味を持っている医師を受け入れて技術を教えている」
「医療技術は医師と研究者が両輪で動いていかないと進歩しない。日本の有力大学や研究所は基礎研究が中心で論文を書くことが目標になっている。その結果、医療現場で使う医薬品や診断機器などの多くを輸入することになり、患者は世界標準の治療を受けようとすると高額の医療費がかかるようになってしまった。この状況を変えたい」
(日経新聞 2013/1/8より引用)