◇午前中に福岡へ 終了後、夕方の便で帰国
研究段階にある幹細胞治療が、福岡市内のクリニックで韓国人を対象に大規模に展開されていた。
日本の規制の甘さに目を付けた韓国のバイオ企業は「治療の安全性も効果も立証している」と胸を張る。
山中伸弥・京都大教授のノーベル医学生理学賞受賞を機に注目を集める「再生医療」の臨床応用。
その真価を探るため、再生医療の虚像と実像を追う。
「健康維持のために月に1回程度福岡に来て、幹細胞を注射してもらっているの」。11月中旬、平日夕方の福岡空港国際線出発ロビー。点滴後の処置とみられるばんそうこうを手の甲に張った60代の韓国人女性たちは、韓国のバイオベンチャー「RNLバイオ」(本社・ソウル)との契約で日本に通っていると証言した。別の高齢者夫婦は「韓国では(幹細胞投与が)許可されていないから福岡の良い病院に通っている。何度も来るのに飛行機代が高い」と言い残し、搭乗口へ向かった。
JR博多駅前の「新宿クリニック博多院」で幹細胞投与を受ける韓国人たちの多くは、ソウルや釜山から直行便で午前中に来日。添乗員とタクシーで移動し、夕方の便で帰国する。R社が採取・培養した幹細胞を保冷容器に入れて持ち込む患者もいる。
同院で投与にあたる榎並寿男医師(65)はR社側からの「請け負い」を認め、「山中先生みたいに何か(遺伝子など)入れて作っているわけではなく、自分の細胞を戻すのだから単純に考えればいいように思う」と話した。
R社が関与する日本での幹細胞治療は09年に始まった。最初は石川県内のクリニックに韓国人患者を紹介し、10年5月には京都市南区の自社ビルに幹細胞治療専門の「京都ベテスダクリニック」を開業。ここで投与を受けた糖尿病の韓国人男性(73)が死亡したのは、開業4カ月後だ。
駐大阪韓国総領事館が作った韓国政府への報告文書などによると、男性はR社と契約。10年9月30日午後、幹細胞4億個を2?3時間かけ右足から点滴した後に急変し、近くの病院で間もなく死亡した。
釜山市に住む遺族側とは示談したとされるが、内部資料や関係者への取材で、安全管理体制のずさんさが浮かんだ。主治医は点滴の途中から不在となり、スタッフが異変に気付いた。クリニックには緊急時用の機器がなく、119番で救急車を呼んだ。翌10月、韓国の国会審議で男性の死亡が取り上げられ、新たに中国でR社と契約した1人が死亡していたことも分かった。R社は毎日新聞に「幹細胞と死亡に因果関係はない。幹細胞治療は生命倫理に反しておらず、当社の研究で安全性や効果も立証されている」と答えた。
事態を重く見た京都市と厚生労働省は当時、医院開設許可の取り消しも視野に対応を検討したが、同院は11年3月に起きた東日本大震災による入国者激減のあおりを受けまもなく閉院、機会は失われた。
一連の出来事から1年あまり。R社は、九州・博多を幹細胞治療ビジネスの新たな拠点と定めた。ここで幹細胞投与に当たる日本人医師たちの中には、ベテスダで死亡した男性の元主治医も含まれる。
再生医学研究ではトップを走る日本が、科学的根拠に乏しい治療の楽天地という現実。日本再生医療学会の幹部はこうした現状を「(ゆるい課税基準で外資を呼び込む)タックスヘイブン=租税回避地」にたとえ「治療(規制の)回避地だ」と嘆く。幹細胞ビジネスに詳しい理化学研究所神戸研究所のダグラス・シップ氏(科学政策・倫理研究)は「規制のない国に患者を送る組織と、『治療』を担う医師がそれぞれ責任を回避して利益を得る巧妙な仕組み。
研究段階の医療に患者が金を支払うこと自体が倫理的に問題で、患者の安全や日本の評価にマイナスだ」と指摘する。
◇規制強化へ政府動く
今年9月18日、東京・永田町の衆院第1議員会館。元厚生労働相で医師でもある坂口力(ちから)衆院議員(今回衆院選で引退)を、退任したばかりの阿曽沼(あそぬま)慎司・前厚労事務次官が訪ねた。「年内に基本法を作っていただけませんか」。今後、飛躍的な進展が見込まれる再生医療に関する議員立法の依頼だった。
「国家として重要な問題だから議員立法でやるべきだと思った。人工多能性幹細胞(iPS細胞)のような先端医療とそうでない(民間の自由診療のような)問題の両方に問題意識があった」と阿曽沼氏。要請を受け、坂口氏は10月、迅速で安全な研究開発や普及を国、医師、事業者に求めることなどを柱とする「再生医療推進法案」(仮称)の私案をまとめた。自民、民主、公明3党が賛同。衆院解散で法案提出は仕切り直しとなったが、来年の通常国会への提案を目指している。
iPS細胞から作った網膜の細胞をヒトへ移植する臨床研究が、14年にも日本で始まる。国際競争の中、実用化は急がなければならないが、最大限注意しても予想外の事故は起きうる。坂口氏は「そのような事態に備えた国のルールがないことに危機感があった」と、議員立法の動機を語る。
厚労省も同じ頃、再生医療の安全性に関する法令を検討する専門委員会を設置するなど対策を模索し始めた。「新宿クリニック博多院」のような自由診療の実態把握や規制は現行制度では難しい。国の指針や通知に従わない医療機関を探し出す仕組みはなく、医療事故につながる明白な過失がない限り都道府県も調査できない。厚労省の担当者は「実態把握はインターネットに出回る情報だけが頼り」と打ち明けた。そんな中、現実だけが急速に進んでいる。今月14日の専門委で厚労省は突然、行き過ぎた再生医療を規制する新法を来年の通常国会に提出する方針を示した。荒木裕人・再生医療研究推進室長は「ノーベル賞受賞で期待とともに、安全性確保の必要性が高まった。議員立法と足並みをそろえ、規制の整備を急ぐ」と説明する。
(毎日新聞 2012/12/22より引用)