◇ひざ軟骨復元「再びテニスを」 膨らむ期待、問われる真価
再生医療の実現は、従来の規制や制度が想定してこなかった「未到の挑戦」と呼ばれる。一方、経済産業省が11年、全国の成人男女2900人を対象にインターネット上で実施した調査では、再生医療の普及に75%が「期待する」と答えた。その期待に、現状はどこまで応えているのだろうか。
照明に照らされた夜の屋内テニスコートに、ボールを打ち返す軽快な音が響く。東京都内の会社員、光石さんは2009年秋、テニスの練習後に左ひざを故障した。検査の結果、関節の軟骨が欠けていた。「軟骨は再生しにくい。今後は運動を控えるように」と医師から告げられた。「スポーツが大好きで、やめるなんて考えられなかった」と話す光石さんが再びコートに立てるようになったのは、幹細胞治療の臨床研究を受けた結果だ。
東京医科歯科大の関矢一郎教授は08年から、国の指針に基づき「軟骨再生」を目指す臨床研究を実施した。ひざの骨をくるむ滑膜(かつまく)の一部を抜き取り、そこに含まれる幹細胞を培養、軟骨の欠けた部分に流し込む。光石さんは10年春、この手術を受けた。磁気共鳴画像化装置(MRI)で経過を確認すると、欠けた部分に新しい組織ができていた。分析の結果、軟骨の再生が確認された。
国の指針に基づく臨床研究の場合、患者への丁寧な説明と、結果を研究機関の責任者に報告することが求められる。
光石さんは「手術の合併症や、何かあった際の対応について一生懸命説明してもらい、安心できた」と振り返る。関矢さんは「従来の治療法では達成できなかった、患者の日常生活の質の向上につながる。早く一般医療にしたい」と話す。関矢さんはこの成果をもとに、半月板損傷の患者の臨床研究を来年始める計画だ。
山中京都大教授のノーベル賞受賞を機に、産業界も「光」を感じ始めた。10月8日にノーベル賞が決まると、再生医療関連銘柄の株価が上昇。国内で唯一、再生医療製品を販売するジャパン・ティッシュ・エンジニアリング(本社・愛知県蒲郡市)も同月16日、年初来最高値の10万2800円をつけた。前の週の終値6万5500円(10月5日)の倍近い。
同社は1999年設立。これまでに、皮膚と軟骨の二つが、再生医療用の製品として承認を受けたが、手続きの厳しさや遅さに苦しみ、何度も経営難に陥った。そんな小沢洋介社長が「設立から14年間で、今が一番明るい」と声を弾ませる。
従来の文部科学省、厚生労働省による研究開発支援に加え、経産省も、再生医療用の細胞培養を医師が民間企業に委託できるよう制度の創設を検討するほか、来年度概算要求で企業の治験支援に15億円を計上した。小沢さんは「国が足並みをそろえて支援を続ければ、産業にも必ず下りてくる」と期待を込める。
◇iPS、新薬開発に現実味
幹細胞の利用をめぐっては、人工多能性幹細胞(iPS細胞)などで難病を治す再生医療へ注目が集まるが、本格的な実用化に近いのは、病気の解明や新薬開発などの分野かもしれない。
京都大iPS細胞研究所の井上治久・准教授らは今年8月、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者のiPS細胞から作った運動神経の細胞を調べ、細胞の異常を抑える物質を見つけたと発表した。iPS細胞が難病の治療薬開発に役立つことを示す初の成果だった。
◇ALS研究者「天からの糸」
ALSは全身の筋肉が徐々に動かなくなる病気で、19世紀に確認されて以来、多くの研究者が治療法開発に挑んできたが、いまだに治療薬がない。井上さんは、研究を進展させるには、生きている患者自身の神経細胞が必要だと考えていたが、脳や脊髄(せきずい)にある神経細胞を取り出すことは、容体の悪化につながるためできない。iPS細胞の登場は、患者の神経細胞を体外で作り出せることを意味し、井上さんにとって「天から下りてきたクモの糸」だった。
井上さんは「患者のありのままの病態を再現できる。難病研究にとって『革命』だったと思う」と話す。
特定の病気の患者の細胞からiPS細胞を作り、患部の細胞に分化させれば、より簡便に薬剤の効果を調べられる。国内の製薬企業も新薬の候補探しにiPS細胞を使い始めた。
再生医学の政府戦略を検討する文科省作業部会のメンバー、門脇孝・東京大病院長は「iPS細胞研究では、日本は間違いなくトップを走る。今後は再生医療の実用化を見据えた品質管理や倫理面でも、世界に先駆けた道を切り開く責務がある」と話す。
ノーベル賞授賞式後の記者会見で、山中さんは言葉を選びながらこう語った。「今後は(iPS細胞が)本当に役に立てるか、というステップに移った。(ノーベル賞は)その節目の出来事と感じている」
iPS細胞の登場と、その後わずか6年でのノーベル賞受賞は、再生医療への高揚感をもたらした。再生医療は、そして幹細胞は本当に役に立つようになるのか。真価が問われるのはこれからだ。=おわり
■ことば
◇幹細胞
組織や臓器の細胞のもとになる細胞。人の体内にある幹細胞「体性幹細胞」と、人工多能性幹細胞(iPS細胞)など人工的に作った「多能性幹細胞」がある。それぞれ失われた機能を取り戻す再生医療への活用が期待される。多くの体性幹細胞は、限られた組織や臓器の細胞にしかならないが、多能性幹細胞はあらゆる細胞になる能力を持つため、治療の可能性を広げるとして注目されている。現在、臨床研究が進むのは体性幹細胞で、iPS細胞を使った臨床研究は、国内では14年以降に計画されている。
(毎日新聞 2012/12/22より引用)