◇先走る実用化工程表
「日本のiPS細胞(人工多能性幹細胞)への期待は過熱気味。何でも治るわけではありません」
先月、東京都内で開かれたメディア向けの勉強会で、高橋・理化学研究所プロジェクトリーダーは語りかけた。高橋さんはiPS細胞から網膜の細胞を作り、加齢黄斑変性の治療に使う初の臨床研究を準備している。
その3週間ほど前、文部科学省はiPS細胞の実用化に向けたロードマップ(工程表)を改定した。高橋さんが携わる網膜の細胞の臨床研究開始は「1~2年後」と明記された。神経幹細胞を使った脊髄(せきずい)損傷治療は「5年以内」、心筋は「3~5年後」--。
だが、当事者たちはロードマップを重視しない。「希望的観測だ」と話す研究者もいる。
iPS細胞は、体細胞に遺伝子などを入れて人工的に作る。特定の細胞にして移植した後、発がんする危険性や、長期間機能を保つかなど、分からないことは多い。幹細胞の仲間で体内にある「体性(たいせい)幹細胞」や、1998年に初めて作製されたヒト胚性幹細胞(ES細胞)も実用化を目指すが、これらもまだ一般的な医療にはなっていない。バイオ産業でつくる「バイオインダストリー協会」の堀友繁・先端技術・開発部長は、iPS細胞の実用化を「網膜以外は10年単位で時間がかかるだろう。今はそれをどう短くするか、という段階」と見通す。
再生医療がもたらす国内市場規模(推計)は「20年後に1000億円規模」。安倍晋三自民党総裁は衆院選で「再生医療への集中支援」を経済政策に掲げた。だが産業界は、研究と実用化の間に横たわる「障壁」に直面している。
今春、バイオベンチャー「セルシード」(東京都新宿区)が60人の従業員の半数をリストラした。同社は東京女子医大が89年に開発した、患者の細胞から作る「細胞シート」の実用化を目指して01年に設立された。シートを患部に張って修復する臨床研究は角膜や食道、心筋などに広がる。同社は07年、角膜シートの「医薬品」の承認を目指す治験をフランスで始めた。日本では承認に時間がかかることを見越した判断だったが、リーマン・ショックなどで資金繰りが悪化し、大幅な合理化を余儀なくされた。長谷川幸雄(ゆきお)社長は「日本の薬事法は細胞を使った治療を想定していない。ベンチャーはスピードが重要なのに」と話した。
政府は昨年、再生医療の実用化促進に向け、承認手続きの一部を簡略化。薬事法の分類に「再生医療製品」を新たに加える改正案を、来年の通常国会に提出する予定だ。「再生医療イノベーションフォーラム」の吉岡康弘・富士フイルムフェローは「再生医療に投資する企業は減税するなど、実用化のための経済的支援を」と訴える。
先走るiPS細胞実用化への期待。幹細胞研究が専門の須田年生(としお)・慶応大教授は言う。「ロードマップは、すべての臓器の病気で臨床応用を目指すことを最終目標に据えるが、本当に実現できるのか。iPSの効果と安全性を含め、可能性を厳しく議論する必要がある」
(毎日新聞 2012/12/22より引用)