どんな細胞にもなるiPS細胞を使った再生医療が実現間近だ。目の病気の患者を治療する世界初の試みが国内で1~2年以内に始まる見通し。人のiPS細胞誕生から5年。生みの親の山中伸弥京都大学教授は「2020年までにパーキンソン病や血液の病気の治療も始めたい」と意気込む。
「患者を治療できる段階にきた」。6月中旬、横浜市で開かれた日本再生医療学会で、医師でもある高橋政代理化学研究所プロジェクトリーダーは科学者の立場から、iPS細胞を使った初の臨床研究に必要な準備は整ったと力説した。
治療対象は網膜が傷ついて視野の真ん中が見えなくなり、放っておくと失明する恐れもある目の難病。患者から皮膚細胞を採り、それを基にしたiPS細胞から網膜の細胞シートを作って目に貼る。動物実験で効果や安全性は確認済みだ。
神戸市にある先端医療センター病院でまず5人の患者で試す。7月中に同病院倫理委員会に申請するつもりだが、倫理委メンバーから「もう少しiPS細胞について知識を深めたい」と「待った」がかかった。
同病院は大学などの最新成果を新しい治療につなげるための国内でも珍しい医療機関で、専門家もそろう。それでも手続きに時間がかかる。前例のないiPS医療で失敗は許されない。慎重さは期待の大きさの裏返しでもある。「13年度にも治療を始めたいが、1年程度遅れるかもしれない」(高橋氏)
07年、山中教授が世界に先駆けてヒトiPS細胞を作った。人間の始まりとなる受精卵に似た性質を持ち、どんな組織や臓器にもなりうる。生物学の常識を覆したこの成果はノーベル賞が確実視される。
そんな山中教授の姿が今年3月の「京都マラソン」にあった。完走を約束し、研究への寄付を呼びかけた。治療を見据えた段階に移り、研究費が足りなくなるかもしれないからだ。
京大、理研のほか東京大学や慶応大学の主な研究プロジェクトが12~13年度で終了、年100億円近い国の予算が途切れる。新たに始まる研究計画もあるが、京大では10年に開設したiPS細胞研究所の人件費を賄えなくなる恐れもある。
フルマラソンを完走、1000万円以上を集めたが焼け石に水。テレビ番組でも寄付を呼びかける同教授を、仲間の一人は「肝心な研究の時間がなくなる」と心配する。
「手を組みませんか」。iPS細胞から血小板を作った京大の江藤浩之教授は最近、米バイオ企業のアドバンスト・セル・テクノロジーから誘いを受けた。同社は受精卵から作るもう一つの万能細胞(ES細胞)で目の治療を試みており、再生医療の事業化で世界をリードする。
江藤教授の手法を使えば献血に頼らずに輸血ができるようになるかもしれない。事業化のにおいをかぎつけたようだ。「国内企業からは声がかからない」(江藤教授)
日本のiPS細胞研究はトップクラス。6月の学会でも横浜市立大学が「ミニ肝臓」を作製したと発表、難しいとされてきた臓器づくりに道を開くとして注目を集めた。
しかし治療応用と事業化に素早くたどり着けなければ、「果実」も海外に流れかねない。日本生まれのiPS細胞を利用した再生医療をいち早く受けるのに、海外へ渡らなければならない事態もありうる。
細胞の製品化や治療応用への承認取得、量産体制の確立には、企業を巻き込んだ取り組みも欠かせない。
(日経新聞 2012/7/3より引用)