京都大の山中伸弥教授が、マウスの皮膚細胞に4種類の遺伝子を加え、あらゆる種類の細胞になる能力を持つ人工多能性幹細胞(iPS細胞)を作成したと米科学誌「セル」に発表してから8月で5年。翌年にはヒトでの作成にも成功、その後多くの研究者がiPS細胞のさまざまな研究に取り組む起爆剤となった。この間の成果や課題をまとめた。
従来、受精卵が細胞になってしまうと、時間同様、元には戻せないと考えられていたが、山中教授の成果はその常識を覆した。
■がん化防止へ改良
最初に山中教授が発表した作成方法は、皮膚細胞などの体細胞に、DNAに遺伝情報を書き込む能力を持つレトロウイルスを使って4種類の遺伝子(Oct3/4、Sox2、c-Myc、Klf4)を加え、細胞の核が持つ情報を、時計の針を巻き戻すように「初期化」するというもの。
iPS細胞からさまざまな組織を作り出し、患部に移植すれば、従来は治らなかった難病の治療につながる可能性がある。これまでに神経や心筋、肝臓など多くの組織が作られ、こうした「再生医療」への期待が高まった。
移植の前提として、欲しい組織の細胞だけを作り出すことが必要だ。だが最初の方法では、4遺伝子のうちc-Mycががん遺伝子であることから、移植後、体内でがんになる恐れがあった。
さらに、遺伝子の「運び役」のレトロウイルスが遺伝子を傷つけてがん化を引き起こす恐れもあった。これを克服するため、遺伝子を傷つけない別のウイルスや「プラスミド」と呼ばれる物質、リボ核酸(RNA)などで置き換える改良もなされた。最近有望と考えられているのが、これらのやり方だ。
安全性について山中教授は「元になる細胞や作成方法の異なるヒトのiPS細胞50種類を対象に、詳細な比較検討を進めている。今年度から来年度にかけて成果を公表していきたい」と話す。
■難病治療研究へ加速
慶応大の岡野栄之教授は「どの方法が最もよいか、今後1~2年のうちに選ばれるのでは」という。
岡野教授は、iPS細胞で脊髄(せきずい)損傷を治療することを目指している。安全性の高いiPS細胞から神経を作れる道筋がつけば「臨床研究を5年後には始めたい」(岡野教授)と意気込む。
さらに臨床研究が早いと見られるのが、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の高橋政代チームリーダーらによる、目の病気に関する研究だ。iPS細胞から網膜の一部「網膜色素上皮細胞」を作り、悪化すれば失明する「加齢黄斑変性症」の患者に移植して進行を遅らせるもので、今後2年ほどで臨床研究に移る予定。実現すればiPS細胞を使った初の臨床研究となる。
■新薬開発にも有望
最近では、再生医療より新薬の開発にiPS細胞を活用する方法が注目されている。
例えば、筋ジストロフィーなど難病患者の体細胞からiPS細胞を作り、治療薬の候補物質を加えて毒性や薬効を調べる。こうした手法で多数ある候補物質を絞り込み、開発期間やコスト削減につなげる。
山中教授は「世界中でiPS細胞研究が盛んだが、大半は、患者の細胞から作った『疾患iPS細胞』による病態の研究や薬の探索だ。その現場では、4遺伝子をレトロウイルスで導入する最初の作成方法がかなり使われている。この状況は今後も続くだろう」と有用性を見込む。
■研究支援や特許も
iPS細胞研究は、日本が世界をリードできる有望な分野として、国の研究費も右肩上がりに増えている。10年度には当初予算だけで60億円、補正予算も含めると年間100億円規模になった。
今年度からは、文部科学省と厚生労働省が公募で選んだ研究計画に対し、最大年間3億円を15年間支給する新規事業を共同で開始。文科省の石井康彦ライフサイエンス課長は「1年でも2年でも早く医療現場に持っていく。基礎研究から有望なシーズ(種)を見つけることに重点を置いてきたが、今後は見つけた種を早く大きく育てる」と話す。
京都大も10年4月、研究推進を狙って従来組織を格上げし、学部と同等の「iPS細胞研究所」(CiRA)を開設、山中教授が所長に就いた。「基礎から応用まで一つ屋根の下で研究して応用を目指す」(山中教授)のが狙いで、250人体制で研究に励む。
日々の研究とは別に、iPS細胞作成技術の特許取得も重要な戦略だ。将来、応用が本格化した際、作成技術の特許を少数の民間企業などに押さえられていると、巨額の使用料を求められる恐れがある。
今年7月から8月にかけ、京都大が申請していた山中教授の基本技術に関する特許が欧州と米国で相次いで成立した。京大は「高額の使用料は設定しない」と表明している。
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◇iPS細胞をめぐる主な出来事
06年 8月 山中教授がマウス細胞からの作成を発表
07年11月 山中教授と米チームがヒトでの作成を同時に発表
08年 9月 作成に関する京都大の基本特許が日本で成立
10月 山中教授らが「プラスミド」による作成を発表
09年10月 遺伝子を傷つけないウイルスでの作成を日本企業が発表
10年 4月 京都大が「iPS細胞研究所」を開設
11年 6月 山中教授が、iPS細胞の作成効率を上げつつ不完全な細胞を増やさない新たな遺伝子「Glis1」を論文で報告
7、8月 京大の基本特許が欧州と米国でも成立
(毎日新聞 2011/8/30より引用)